「夢を追って!」
国際親善奨学生
太田房雄
いつの頃からか教育現場、巷や街角に纏わるマスコミ情報に「夢○○」という殺し文句が目立つようになった。私もこれまで幾つかの夢を追ったが今ではどれも遠い存在になった。高校時代に歌手になりたいと父親に伝えた。「歌手では食っていけない、国立大学に受からないなら、大學へ行かず働け」と即答だった。父の給料では私立大は無理だったのであろう。その後母の強い希望を入れ100%合格見込みの徳島大学医学部進学課程を受験し合格した。今から思えば不本意入学だったような気がする。父が通訳免許保持教師だった事もあり大学入学当初より英語に興味を持ち、英字新聞などで勉強し学部3年時に産経スカラーシップを受け250余名中30名足らずの合格者に入ったが書類審査(二次試験)で入学以降の成績不振で不合格、この夢も叶わなかった。
卒業年前後から学生運動による社会変動で、医師国家試験を3回ボイコット、インターン拒否となった。この頃映画の脳神経外科医ベンケーシーにあこがれ、アメリカでその道をと考え沖縄米軍病院のインターン生応募に受験申請書を送付寸前に学生運動によりクラス会が受験すると同級から除名と決議され、当時の学部長に相談した。帰り際に「同級生とは仲良く」と言われ、涙ながら申請を諦めた。受験生全員合格となり再度夢は叶わなかった。
32歳の時ロータリー財団援助金によるカナダ留学が終わる直前にフィラデルフィアの大學へ手紙を出したところ、家族とともに年俸8000ドルで即受け容れたいという返事が来た。母国の恩師に問い合わせたると、「帰国するように」との返事で間もなく帰国、恩師は2年後に定年退職した。間もなく後任教授から辞職を要請され、翌年文部教官助手席を辞職する条件で英国王立外科大学病理部門へ私費留学として家族全員ロンドンへ移住し、1年後辞職願いを徳島大学へ送付した。ロンドンでの3年目に、オーストリア(ウイーン)の某製薬会社(現ノバルティス)研究所長職に応募したところ、人事部長と面会の上、家族と共に1週間ほどの招待で現地見学後に決定して欲しいとの回答をいただいた。この後に徳島大学から辞職を破棄したので、2年を目処に帰国してほしい旨の手紙が来た。当時父が脳梗塞後療養中で家内の反対もあり、やむなく帰国し、またも夢は叶わなかった。
大学で教えたエチオピア出身大学院生を介して「徳島大―ゴンダール大」間で学術協定締結に助力、定年前の辞職時にロータリー会員と再開した。当時最貧国の一つと言われたエチオピアでロータリーの新たな6つの重点項目「疾病予防と治療」として「移動型包括保健・医療ネットワーク」なるプロジェクトを1年掛けて和文と英文で立案し、四国地区RIから承認をいただいたが、実現(最後の夢?)することなく、これもいつの日か立ち消えたようだ。
唐の杜甫の五言律詩「春望」の一句に「国破れて 山河あり、城春にして草木深し」と唱われています。今の心境は、「夢破れて山川あり、自宅初夏にして草木深し」という心境のもと日々屋島を眺め、春日川近辺を歩き、日々庭の草木に手入れをしています。夢の実現には、親兄弟などに反して実行する強固な意志、周囲の環境、時の流れなどが整うことが必要なのでしょう。今にして思うに、前述エチオピア留学生がアジスアベバ大学教授を経て現在エチオピア国の科学技術大臣に就任している事が教育分野での唯一叶った夢だろうか?他の夢は全て破れたように思えるのですが、恩師や父母の最後を見届け子供も成長した今、後は妻と共に老いを待つ状態です。特段の後悔もなく、これが人並の幸せなかと感じつつ過去を思い出しなから、最後の夢を模索している今日この頃です。